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執筆者の写真RunningClub BreakThrough

東江那津さんの競技人生〜専門学校から実業団へ〜

こんにちは、ブレイクスルーランニングクラブ(BTRC沖縄)です。


先日の横江さんのブログが好評だったことに味をしめ、これから会員さんの声(ランニングライフ)をどんどん載せていこうと思います。笑


ということで、今回は沖縄女性ランナーのレジェンド東江(旧姓 安仁屋)那津さんの現在に至るまでのストーリーをなんと2本立てでお送りします!


今でも現役で県内トップレベルで走ってる那津さんですが、「もとから速かったんでしょ」と思われてる方もいらっしゃるかと思うので、ここで競技者としての生い立ちを読んで是非ご自身や若い子たちへの刺激にしていただけたら幸いです。


それでは那津さんストーリースタートです!


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BTRC沖縄アスリートクラス所属の東江那津です。


現在、高1・中2・小4の3人の男の子がいるママさんランナーです。今日は私のランニングライフについて書きたいと思います。長文になるかと思いますが最後までお付き合い下さいませ(^.^)


私が陸上を始めたきっかけは、中学生の時に友達に誘われて陸上部に入ったことです。

特に速いわけでもなく、中学代表で県駅伝を走ったという位でした。


高校でも陸上を続けましたが、3000mのベストタイムが11分03秒で、県の代表に選ばれもしない普通の選手でした。


そんな私が国際リゾートスポーツ科学専門学校(元SOLA)へ進学し、運命の出会いをしたことで陸上人生が一変しました。


その人こそBTRC沖縄のコーチである安里秀光、俊光兄弟です。


左右どちらが秀光コーチ・俊光コーチかわかりますか?

正解した方はもれなくBTRCに入会お願いします。笑


その頃の2人は髪型もほぼ同じで、見分けるのに1週間かかりました。笑


元実業団選手から話を聞くことができるということで、「一緒にjogしてください」と毎日職員室通い。笑

毎日一緒に走りながら練習量や練習メニューについてなど、いろんな話をしてくれました。


そんな日々の中で、「私ももっと早く走りたい」と意欲を持って練習に取り組むように。


それまでは1人でやっていた朝練も、学校へ集合して男子選手と一緒に走るようになったりしたことで走る距離も増えていきました。


安里兄弟と過ごしていく中で、私の中で「走る」ことへの意識が変わり始めていました。

強くなるためには何をしたら良いか、毎日そのことばかりを考えていました。


「今日と言う日は今日しかない、今日の練習は今日しかできない」


ポイント練習の日には毎日その言葉を心に置いて練習に取り組みました。


気持ちが変われば不思議と苦しくても体が動く…いや動かさないといけない!と言う意識が働き、タイムも伸び始め、その年の冬には3000mが10分30秒台で走れるように成長。


そして初めて九州女子駅伝の沖縄代表のメンバーにも選ばれました。

ですが区間順位は最下位で、県外との差を実感することに。


その後、怪我で3ヶ月ほど走れない日が続き、挫けそうになることもありました。


そんな時に、安里兄弟から

「自分が今できる事は何か?」「怪我を治すために何をするべきか」

そして実体験などを聞き、挫けそうになる気持ちを奮い立たせることができました。


また1からのスタートでしたが、苦しくても練習が楽しい、もっと走りたいという気持ちで練習に取り組みました。


専門学生だったので1ヵ月職業体験をする期間があったため、その期間実業団チームへ体験へ行きたいと相談したところ、安里兄弟は九州の実業団の方へ連絡を入れてくれ、1ヵ月間受け入れてもらえることになりました。


朝は4分ペースで集団で10km走。午後はインターバルや距離走。

さらには合宿へも同行させて貰いました。


その期間、練習はとにかく毎日必死!


ただ、沖縄で安里兄弟と30km走にも取り組んでいたおかげで、最後まで怪我なく合宿を終えることができました。


受け入れていただいたチームの監督さんやコーチから「どこのチームに行くの?」と聞かれ「まだ決まってないです」と答えると「いい走りしてるのにもったいないな、でもうちの来年の部員も決まっているから」と言われ、やっぱり実業団のチームって甘くないな〜と感じた瞬間です。


学校へ戻ると、担任の先生に呼ばれ「スポーツクラブから就職の案内が来ていて、那津を推薦したいんだけど」と就職の話が舞い込んできました。

来週からすぐ来てほしいと言われて悩んだのですが、前年に出場できなかった都道府県対抗駅伝に出たいと思っていたので、断ることにしました。


ただし、断ったからには絶対メンバーに入って京都を走る!と今までにも増して練習に取り組みました。


その結果メンバーに選ばれ、その上アンカー10km区間を任されました。

3人に抜かされてしまいましたが区間36位、沖縄県は39位という成績を残すことができました。


目標も達成したのですが、専門学校卒業の年、就職も決まっていません。

アルバイトしながら公務員試験でも着ようかと悩んでいた時、日立製作所陸女子陸上部が合宿で沖縄に!


当時の日立の監督が安里兄弟と旭化成で一緒に走っていたこともあり、間に入っていただき一緒に練習に参加させてもらうことになりました。

また、実業団の人と一緒に練習できる〜♪と会いに喜んでいたのですが、安里兄弟から「俺たちから採って下さいとは言わない。だけど道は作ったから後は那津が頑張れるか?どうアピールできるかだよ」と。


そこで初めてことの重大さに気づいた私。(笑)


一気に血の気が引きましたが(笑)いつもの走り、いつもの自分の練習をすればいいんだと言い聞かせ練習に参加。

30km走、インターバル、ポイント練習に遅れることなくこなすことができました。


そして最後に3000mT.T(タイムトライアル)が待っていました。


明日で最後。頑張らないと!と思っていたのですが、その日学園祭があり打ち上げで飲んでしまったんです。(笑)


翌日、起きれないほどの二日酔い。(笑)


練習は夕方から。

とにかく寝て、ご飯も食べられない。


正直に話をして練習に行くのやめようかと思いましたが、安里兄弟の「那津がどう頑張れるか」と言う言葉が頭をよぎり、吐き気のあるまま練習へ。


アップして気持ち悪くて吐きそう…。そんな状態で3000mT.Tスタート。

ですが、当時の3000mベストタイムを2秒ほど更新し、まさかの自己ベスト。(笑)


とにかく走り終わって安心していたところに監督が来て「酒飲んでなかったらあと5秒よかったなぁー(笑)」と言われ… 。(笑)


バレてる…。


でも仕方ない。自分の失敗だからと諦めていたら、まさかの「関東だけどうちに来る気ある?」とまさかのオファー。(笑)

もちろん「よろしくお願いします」の返事で実業団チームで走ることが決まりました。


日立に入部して1年目は怪我との戦いでした。

今まで以上の練習場に体がついていけず怪我の日々…。


2年目以降は記録も徐々に伸びていきました。

オーストラリア、ボルダー、中国昆明での高知合宿など。

実業団でいろいろな体験をすることができました。



ちなみに、ボルダーの合宿で現BTRC沖縄コーチの比嘉正樹さんに初めてお会いしました。

資生堂で現役バリバリの正樹さんに同郷ということで「頑張ってね」と声をかけてもらったのを覚えています。

今も昔も変わらずイケメンでした♡


全日本実業団駅伝(現クイーンズ駅伝)ではアンカーも任され、ゴールテープを切ることができました。



4年間と短い期間ではありましたが、

3000m9分36秒

5000m16分20秒

10000m33分41秒

ハーフ1時間13分47秒

マラソン2時間49分47秒

という成績を残すことができ、沖縄へ戻ってきました。


ーーーーー


いかがでしたでしょうか?

最初からトップアスリートだったわけではない中で、安里兄弟との出会いから競技に対する向き合い方を学び取り組み、そしてまた運も味方し実業団への世界へ進むことに。


4年間の実業団生活を経て、次のステージとなる市民ランナーの舞台へ。

この続きはまた後日!


お楽しみに!!

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