こんにちは、ブレイクスルーランニングクラブ(BTRC沖縄)です。
先日の東江那津さんのブログ「専門学校から実業団へ」 をお読みいただきありがとうございます。
今回はその続きとなる、今もまだ続く市民ランナー編!
「えっ、まだ走ってるの?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、那津さんは生涯現役です。笑
というわけで、後編をお楽しみください。
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競技者として引退をし、第一線から退き沖縄楽しく走ろうと戻ってきたのですが…。
しばらく走らないと、「また走りたいなぁ」と思うようになってきました。
当時在籍していた「沖縄日立」では、走ることに理解があり協力してもらいました。
そこで会社のユニホームを着て走ることになり、私は再度安里兄弟のもとへ戻り指導して欲しいとお願いをし、また一緒に練習をすることになりました。
優勝を目指して挑んだNAHAマラソンでしたが、結果は2位。
悔しい結果に来年こそはと親友の宮城依子(現姓 与儀)と一緒に練習を取り組みました。
尚巴志ハーフを走った2日後に3万mを2人で泣きながら走ったこともありました。
そんな1年間練習に取り組み、第20回NAHAマラソンで優勝することができました。
14年ぶり、3人目の県勢優勝。
私もマラソンでは初の優勝だったので、とてもうれしかったです。
2004年12月4日沖縄タイムス
この勢いでおきなわマラソンも!と思っていたのですが、まさかのゴール目前で抜かれ2位。
もう少し胸が大きかったらな(笑)と、また悔しい結果だったのですが、なぜかその後走る気力がなくなり…。
あんなには毎日走っていたのに焦らなくなってしまいました。
気持ちが切れている時、主人に出会いました。
主人も元ランナーなので、走ることに理解のある人でした。
一緒に走ることもあったのですが、妊娠したことがわかり、入籍することになりました。
長男の妊娠が分かった時、切迫流産の危険があったため、「絶対に走らないで!」と念を押され、走る事から遠ざかりました。
人間は不思議なもので、「ダメ」だと言われるとやりたくなるものです。
走れない日々があったおかげで、長男を出産してから「また走りたい」と言う気持ちが出てきました。
そこで、2月のおきなわマラソンの10kmの部にエントリーし、出産後3ヶ月で走ることを再開しました。
育休中なので毎日母に長男を見てもらい、1時間走りに行きました。
最初は少しだった走っただけでも死にそうな位でしたが(笑)、少しずつトレーニングを重ね、10kmを無事に完走することができました。
これが東江那津、ママさんランナーとしての始まりです。
もちろん、また安里兄弟にコーチをお願いしました(笑)。
そして第6回尚巴志ハーフマラソンで優勝することができました。
ママさんランナーとして走り出した私ですが、翌年主人の転勤で県外へ行くことになり、2人目を妊娠したことでまた走る事から遠ざかっていきました。
県外では子供を預ける人もいなく、主人は家を空けることが多い仕事のため、全く走れませんでした。
普通に走らないことが日常になって3年。体重もしっかり増加(笑)。
ある日、体重計に乗ってびっくり(笑)。
このままではまずい!とダイエットの神様が降りてきました(笑)。
やっぱり走るのが1番よね〜と、主人の出勤前に走りに行きました。
3年も走っていないので、1km走るのもやっと。
すごくスローペースで、何とか40分走りました。
そんな毎日を続け、夜の食事を減らし1ヵ月で約8kg減。
走っていた頃の体重に。
体が軽くなると自然と走るペースも速くなるように。
以前のようにjogをすることができるようになり、走ることも習慣付いてきた矢先!!
予定外の3人目を妊娠(笑)。
安定期に入りしばらく走っていたのですが、お腹も目立つようになってきたのでまた走るのをお休み。
三男が生まれて1年は走る時間は取れませんでした。
三男が1歳になった時、断乳し朝までぐっすり寝てくれるようになったので、朝のランニングを再開。
また1からのスタートですが、久しぶりに走ると気持ちよく、やっぱり走るのっていいなと思いました。
その時は毎朝1時間8〜10km位を走っていました。
そしてようやく、沖縄に帰ることに。
その時の私の頭の中ではすでに沖縄に戻ったら本格的に練習したいと考えていました。
そのための体作りをしていました。
沖縄へ戻り、安里兄弟に連絡を入れ、練習したいと伝え引き受けてもらいました。
「もういいんじゃない? 」なんて言われたりしましたが、ロングjogから始め、ポイント練習ができるまでになりました。
「何(の大会)に出るの?」と聞かれましたが、「とりあえず1年間体作りをして走れるようになりたいので、大会には出ません!」と伝えました。
そしてひたすら練習の日々。
ラン友さん達にも「何に出るの?」とよく聞かれましたが、「好きだから走ってます。まだ何も出ないです」と答えていました。
そして1年間しっかり練習をし、復帰レースに選んだのは尚巴志ハーフマラソン。
産後に優勝した思い出の大会だったので、私の中ではこの大会で復帰したいと思っていました。
そして第15回尚巴志ハーフマラソンで9年ぶりに優勝!。
その後安里兄弟が倉岡弁慶率いるBTRC沖縄のコーチをすることになり、私も迷わずBTRC沖縄に所属することになりました。
NAHAマラソンにも参加しましたが、マラソンでは結果を残せず3時間40分ほどかかってしまいました(笑)。
マラソンって厳しいなぁと思いましたが、充実した日々を送っていました。
そんな走ってばっかりの人生を送ってきた私に、走ること以外の転機が!
親友から「保育所で仕事しない?」と誘われたのです。
最初のうちは補助として保育所で働き始めたのですが、資格がないのでできること(仕事)が限られてしまいます。
陸上を続けてきたように「やりたい」と思うと突っ走ってしまう性格なので(笑)、資格を取ろう!と通信制大学に通うことにしました。
通信とはいえ、スクーリングが土日にあり、レポート提出と、思っていたより大変!
レポートに追われ、家事にも追われ、なかなか練習会へ行けない日が増えていきました。
そんな時、秀さんに「今は資格を取ることを優先した方がいいんじゃないか?」と言われ、アスリートクラスにこだわらずに、BTRCの奥武山の練習に参加してみないかとのご提案。
それを機に、しばらくはアスリートクラスから奥武山へ練習に行くようになりました。
チームメイトとも仲良くなり、資格を取得するまでは週に2回、チームメイトと一緒に走る日が続きました。
まだ大して走ってもいない時にハーフマラソンに参加!
そんなに練習してないけどそこそこ走れるでしょ、と思って参加した大会で、ヘロヘロでゴール…。
たくさんの女性ランナーに抜かれました(汗)。
「なんだか疲れたなぁ」、「もう走るのやめよっかなー」と言った私に、長男から「どうせ辞めるならもう1回何かで優勝してからにしたら?」とのひと言。
長男からすれば何も考えなしに言ったのかもしれませんが、その言葉が胸に突き刺さり一念発起!
こんなことで逃げたら子供たちにも情けないお母さんの姿で終わる。
無事に資格も取得し塩屋トリムマラソンの16.7kmの部で4連覇をすることができました。
ですが、ハーフマラソンやマラソンでは2.3位と優勝できずにいました。
長男との約束を果たしましたが、距離も短い大会だったのでハーフマラソンで何とか優勝したいと考えていました。
そんな時にマスターズの大会に出ている同級生からお誘いが。
「マスターズに参加してみない?」
今まで何度か誘われたことがあったのですが、まだ年代別で勝負はしたくないと思っていた時だったので、ずっと断っていました。
しかし気づけば40歳も過ぎ、一般では勝負できない…。
じゃあ、年代別の沖縄県記録だったら狙えるかもしれない!と思い、マスターズ陸上にチャレンジを決意!
ただ、40代は3000mだと思っていたところ、友人に聞くと5000mだと言われちょっとショック(笑)でしたが、40代の県記録に挑戦することにしました。
そこで改めてアスリートクラスに戻り練習することに。
が…、タイミングを同じくしてコロナ禍に…。
当初はまだまだ未知のウィルスで、緊急事態宣言の発令。
家から走りに出かけるも、マスクをしないで走っていると浴びる冷たい視線。競技場も閉鎖…。
保育所勤務のため、私が感染するわけにはいかない。
1ヵ月ほど走ることが怖くなり、自粛生活をしました。
緊急事態宣言も明け、走りを再開しましたがマスターズの大会は中止。マラソン大会も中止。
ですが、私によってとっては初心に戻れる良いチャンスになりました。
中途半端にトラック練習やマラソン練習をするのではなく、トラック練習に集中することができたからです。
おかげで練習では県記録を破るタイムで走ることもできていました。
翌年再チャレンジしようとしたマスターズの大会も中止。
チャンスを求めて県記録会に参加しましたが、10秒ほどオーバーしてしまい、目標達成には至りませんでした。
気持ちが切れかけた時、思わぬ出来事が起きました。
小学校からずっとサッカーをしていた長男が、本格的に陸上してみたいと言ってきたのです。
一緒にアスリートクラスの練習へ連れて行き、まだまだ息子には負けないぞ!と言う気持ちで、母の背中を見せるが如く息子を引っ張って走りました。
その結果、長男は地区駅伝で区間賞を獲り、当初の予定とは大きく変わり駅伝強豪校である北山高校へ進学することになりました。
親の心配をよそに、メキメキと力をつけてくる息子。
すぐに母のベストタイムを抜いて母を引っ張って走るまでに成長しました。
息子の姿に新たな力をもらえました。
まだまだ走ること、辞められません(笑)。
市民ランナーに引退はありません。
走れなくなった時が引退の時です。
私は走ることを通じて、たくさんの人と出会い、たくさんの経験をしてきました。
出会うはずのなかった人たちに出会い、共に走れる喜び、それら全てが私の財産です。
くじけそうになった時、BTRCのチームメイトの顔が浮かびます。
チームメイトの頑張る姿がいつも私にも力を与えてくれます。
そして、こんなランニングバカの私のことをいつも応援してくれる主人や息子たち。
毎日、走りに行かせてくれて感謝です。
主人も休みの日にはご飯を作ってくれたり、私を快く走りに送り出してくれます。
家族のサポートなしに私のランニングライフはありません。
そして最後になりましたが、私のランニングの転機には必ず隣りにいて、いつも的確なアドバイスをしてくれる安里兄弟。
2人に出会わなければ、今まで走っていなかったと思います。
私よりも私のことをよくわかっている2人(笑)。
走れる時も走れない時も、常に私に寄り添ってくれました。
「努力は無限」
20年以上前に言われたこの言葉を忘れた事はありません。
人生の中で苦しい時、常にこの言葉を自分に言い聞かせてきました。
これから先も人生において思い悩み、辛いこともあると思います。
私はこの言葉を心の支えにして走っていきたいと思います。
すごく長くなってしまいましたが(笑)、これからもBTRCで走り続けていきたいと思います!!
そして、この文を読んでくれた人たちと一緒に走れる日が来ることを楽しみにしています。ありがとうございました。
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